経営者として、最大の投資家と向き合う
弊社は金属の材料開発(商品開発)を専門としていますが、最近は業界を問わず
商品開発に参画される企業様に伴走型コンサルティングのサービス提供の拡大を計画しています。
商品開発とは「未来への投資」。
投資の成功率を高めるサービスの開発や、その根幹となる自分自身の成長に、日夜励んでいます。
先日あることをきっかけに、私という人間に、人生で最も投資をしてくれたのは誰かというイメージが頭をよぎりました。
それは、間違いなく両親です。
父はすでに虹の橋を渡りましたが、母は今、認知症という状態で私に「介護」という固定費の負担を求めてきやがる。
正直に言います。私はマジで母にイライラしていました。
先日、ホンマにホンマに心待ちにしていたMG研修中に母が救急搬送された連絡があり
研修を途中で抜けて、病院で母に付き添いながら、待合室で「なんで今日やねん」と怒りが沸騰!
救急搬送後、入院した母が「帰りたい」と騒げば、お母さんを説得して欲しいと病院から電話があり
病院への申し訳なさが混じった、苦いような酸っぱいような思いで母に電話越しで詰め寄る。
「今は仕事で精一杯、できれば自分の人生を楽しみたいのに
なぜ親の介護に時間を奪われないとあかんのか、なんでオレの人生を振り回そうとするのか」
なぜこんなに腹が立つのかには他にも理由があって...
母に認知症の兆候が見え始めた時、認知症の治療受け、お薬を飲んで欲しいと頼んでも
母は私には必要無いと全く応じなかった。
これまで私のお願いを無視してきた結果、今の状況があると思っていました。
そんなことをしてたから「自業自得やん、なんでオレが尻拭いをせなあかんねん」
そう心の中でこれまで数年間、激しく毒づいていました。
しかし、退院後にこれまで母がお世話になっていたデイサービスから
認知症の進行が理由で受け入れの難色が示され
一時的に行き場を失った母を思った時に私の冷徹な論理が崩れました。
冷徹な論理が崩れた深い理由は自分でも判りません
母の受け入れが難しいということにも一切の反論はなく
今までありがとうございましたというシンプルな感謝でしたが
一応優しさのカケラは持っているのか、なぜか、妙に切なくなった私は...
目の前の一人にすら寄り添えないオレに、一体どんな経営ができねん。
人間教育だ、自己投資だと言いながら、おまえは一体何を学んできてん。
結果を変えたいなら、お袋に自分の考えを押し付ける前に、まず自分の行動を変えんかい。
方向性の定まらない感情が飛躍してしまい、結果、私は母と毎日30分の散歩を始めました。
もちろん、清い心が原点ではありません。
入院前はデイサービスでほぼ毎日ぐらい運動をしていたのに
デイサービスに行けないことが理由で運動量が減る
運動量の減少がさらなる老化の進行になるなら
オレの首を絞めるからなんとかせなアカン。
そんな自己中な考えが原点。
しかし、驚いたのは、隣に並んで歩き出した瞬間の感覚。
母のゆっくりとした歩幅に合わせて歩いていると
そこには驚くほど穏やかで「平和な時間」が流れました。
ひと時だけ、仕事を忘れ、焦りや、責める気持ちが無くなり
母の歩調に合わせながら、他愛もない会話をしながら歩くだけ。
ご近所の玄関先に置いてある、錆びた猫がモチーフのオブジェが可愛いとか
今日は3月?とか聞かれながら。
きれいな言葉は似あいませんが、目的もなくただ歩くだけの時間は
ホントに季節感を感じることが出来る。
ここで私は気づきました。
経営において、相手を「こちらの思い通りに動かす対象」と見ているうちは
本当の信頼関係も平和も生まれない。
視座を変えないとアカンやん、オレ~と激しく自分に突っ込み。
ままならない現実を受け入れ、相手と同じ方向を向いて歩く。
その「心の平安」こそが、経営者の器。それについて、学んできてたんちゃうんか~い。
これまで、自社事業を通して社会貢献だなんだと言ってた自分が恥ずかし過ぎてダメ。
自分にとって一番の投資家にすら満足なリターン(安心)を返せずに、社会貢献などできんわ。
ホンマにそんな自分が恥ずかしい、出直しです。
今は、この30分の散歩を「自己成長への投資」と捉え直しています。
人生最大の投資家に「この男に投資して良かった」と満足してもらえる経営者を目指して。
明日もまた、母の隣を歩きます。